今日で「日本酒の会」からちょうど一週間。
ここ数年で一番長く感じたなんとも濃〜い一週間だった。
「日本酒の会」の翌日、休みといっても前日の片付けが山と残っている。
マダムと二人がかりで三時間ほどかけてやっと終わらせたらもう夕方だった。
その日は余韻に浸りつつ、早めにご就寝。
次の日は旭川空港まで「菩南座」のマスター戸川凛太郎氏をお出迎え。
芦別を出るときは晴れていたが、美瑛あたりから猛吹雪。
うまく着陸してくれればいいと心配したが、なんとか30分遅れで到着。
無事太郎さんと久々のご対面。
1939年生まれの太郎さんは御年73歳。
ちょうど20歳年上の大先輩だ。
おとといの晩芦別に来るのがうれしくて、バーボンを一本空けてストリート・ファイトをこなしたとやらで、目の周りを紫色にしていた。
芦別にも元気な高齢者は多いが、73歳でボトル一本空けて喧嘩上等!ってな人はいない。
なんともROCKなお人だ。
途中温泉で和んでもらい、これからどうしようかと思案する。
行きつけの「千里」は、大ママが亡くなって昨日が初七日。
とうぜん営業はやっていない。
さてどうすっぺかと考え中のところへ、とうのまりちゃんからメールがあった。
なんでも初七日も過ぎたので、仏前で一杯やらないか?というタイムリーなお誘い。
太郎さんのことをいうと、故人はにぎやかなのが好きだったので、連れてきなさいという。
二階に上がってみると、千里の常連さんたちも揃っていた。
太郎さんもみんなとすぐに打ち解けて、まずは大ママに献杯。
それから先は追善もなにもあったもんじゃない。
いくら大ママがにぎやかなのが好きといっても、これでいいのか?というほどの大騒ぎ。
安藤組で男を磨いたあと、フランス料理のコック、その後は北海道でマタギをしたという波乱万丈の太郎さん。
銃の話からバイク、料理から安藤昇までとても濃い話をたっぷり聞かせて頂きました。
芦別に来る前、出血性胃潰瘍を患っていたという太郎さんに、ちょっと飲ませすぎたかも・・。
しかしそんな心配もどこ吹く風。
追悼の名を借りた宴会は夜更けまで延々と続くのであった。
太郎さんもHPに今回の旅のことを書いているのでそちらもぜひ。
ここ数年で一番長く感じたなんとも濃〜い一週間だった。
「日本酒の会」の翌日、休みといっても前日の片付けが山と残っている。
マダムと二人がかりで三時間ほどかけてやっと終わらせたらもう夕方だった。
その日は余韻に浸りつつ、早めにご就寝。
次の日は旭川空港まで「菩南座」のマスター戸川凛太郎氏をお出迎え。
芦別を出るときは晴れていたが、美瑛あたりから猛吹雪。
うまく着陸してくれればいいと心配したが、なんとか30分遅れで到着。
無事太郎さんと久々のご対面。
1939年生まれの太郎さんは御年73歳。
ちょうど20歳年上の大先輩だ。
おとといの晩芦別に来るのがうれしくて、バーボンを一本空けてストリート・ファイトをこなしたとやらで、目の周りを紫色にしていた。
芦別にも元気な高齢者は多いが、73歳でボトル一本空けて喧嘩上等!ってな人はいない。
なんともROCKなお人だ。
途中温泉で和んでもらい、これからどうしようかと思案する。
行きつけの「千里」は、大ママが亡くなって昨日が初七日。
とうぜん営業はやっていない。
さてどうすっぺかと考え中のところへ、とうのまりちゃんからメールがあった。
なんでも初七日も過ぎたので、仏前で一杯やらないか?というタイムリーなお誘い。
太郎さんのことをいうと、故人はにぎやかなのが好きだったので、連れてきなさいという。
二階に上がってみると、千里の常連さんたちも揃っていた。
太郎さんもみんなとすぐに打ち解けて、まずは大ママに献杯。
それから先は追善もなにもあったもんじゃない。
いくら大ママがにぎやかなのが好きといっても、これでいいのか?というほどの大騒ぎ。
安藤組で男を磨いたあと、フランス料理のコック、その後は北海道でマタギをしたという波乱万丈の太郎さん。
銃の話からバイク、料理から安藤昇までとても濃い話をたっぷり聞かせて頂きました。
芦別に来る前、出血性胃潰瘍を患っていたという太郎さんに、ちょっと飲ませすぎたかも・・。
しかしそんな心配もどこ吹く風。
追悼の名を借りた宴会は夜更けまで延々と続くのであった。
太郎さんもHPに今回の旅のことを書いているのでそちらもぜひ。